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『切腹』のポスター

切腹

1962

ドラマアクション履歴

彦根藩井伊家の上屋敷に津雲半四郎と名乗る浪人が現れ「切腹のためお庭拝借」と申し出た。生活に困窮した浪人が「切腹する」と言っては、庭や玄関を汚されたくない人々から金品を巻き上げることが流行っており、家老の斎藤勘解由は数ヶ月前にやってきた千々岩求女という浪人の話を始めた。家老が切腹の場を設けてやると言い出すと、求女は狼狽したあげく、竹光で腹を切った上に舌を噛んで絶命した、と。話を聞いた半四郎は、求女は自分の娘婿であることを告げた。

仲代達矢の写真

仲代達矢

キャスト · 知られているのは乱, 切腹, 天国と地獄

1952年、俳優座演劇研究所付属俳優養成所に4期生として入所。千田是也に師事し、シェイクスピア劇から日本の怪談ものまで多数の舞台に出演。映画界では、小林正樹監督に見いだされ、「人間の條件」6部作(59~61)や「切腹」(62)などで主演を務め、黒澤明監督の「影武者」(80)、「乱」(85)にも主演。成瀬巳喜男、岡本喜八、市川崑、五社英雄など日本を代表する監督の作品に多数出演し、日本映画界に欠かせない存在となる。75年に私塾「無名塾」を設立し、後進の俳優育成にも注力している。NHK大河ドラマ「新・平家物語」(72)や、「大地の子」(95)ほか多くのTVドラマにも出演した。芸術選奨文部大臣賞など数々の演劇賞を受賞。92年、仏シュバリエ芸術勲章、96年に紫綬褒章、03年に勲四等旭日小綬章、15年に文化勲章を受章した。

小林正樹の写真

小林正樹

監督 · 知られているのは切腹

北海道小樽市出身。女優・田中絹代は小林の父のいとこにあたる。小樽中学卒業後の1935年、第一早稲田高等学院に、続いて早稲田大学文学部哲学科に入学。卒業後41年に松竹入社、大船撮影所に勤務するも軍隊に徴集され満州及び宮古島へ。46年に松竹に復職、木下恵介「不死鳥」(47)の現場へ。その後、木下組の助監督を6年14本務める。52年に女優の文谷千代子と結婚。翌53年、木下惠介脚本の「まごころ」で長編監督デビュー。田中絹代が唯一出演した小林作品となる。同年、BC級戦犯の手記を安部公房が脚色した「壁あつき部屋」(56)を監督するが、反米的と見なされ3年間オクラに。なお、この時に撮影した巣鴨などの映像が一部「東京裁判」に使用されている。 続く「この広い空のどこかに」(54)、「あなた買います」(56)が当たり、59年、当時で製作費3億円超、6部構成の全3部作で総上映時間9時間38分の戦争超大作「人間の条件」(59、59、61)を完成。62年黒澤映画を意識した「切腹」はカンヌ国際映画祭審査員特別賞を獲得した。 念願の小泉八雲原作「怪談」(64)のため東宝に出向。初のカラー作品、京都での大型セット建設に加え、出演者のケガに見舞われ1億円だった予算が大幅超過。私財を注ぎ込み完成に漕ぎ着けヒットするも、製作費3億2000万円は回収できず、製作元のにんじんくらぶはこれが原因で倒産。直後、松竹に戻るも一方的に契約解除を言い渡され裁判に発展、勝訴する。 ベネチア国際映画祭国際映画批評家連盟賞「上意討ち 拝領妻始末」(67)などを経て、78年から「東京裁判」(83)に取り組む。米国防省が公開した150時間のフィルムを元に、5年をかけ4時間37分の作品に仕上げた。 遺作は連合赤軍を描いた「食卓のない家」(85)。1996年10月、心筋梗塞のため死去。享年80歳であった。77年、田中絹代の最期を看取り、逝去後は記念館の建設を模索、2010年に「田中絹代ぶんか館」が下関市に開館した。